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「本当に中学(今だと小学)が大事であり、はじめにどんな先生に習うか、どのように教わるかでその人の英語に対する一生の態度が決まるといってよい。」

ある高校の先生がブログで、語学に於ける初学時の大切さと現状のひどさについて40年前に小川芳雄先生が書かれた名著「私はこうして英語を学んだ」の内容を引用しながら警鐘を鳴らしています。

 

とくに語学は習い始めが大切なのに、文科省も学者も学校の先生もメデイアも「高大接続」とかいって大学入試にスピーキング重視の民間試験の導入云々で大騒ぎをしています。

 

一方で、本当は一番大切な初学時の英語の指導を小学校の先生に丸投げしています。私が小学校の先生ならこれほどブラックな職場はないと思います。自信のないことをさせられるほどつらいことはありませんから。

 

小川先生も書いていますが、「本当に中学(今だと小学)が大事であり、はじめにどんな先生に習うか、どのように教わるかでその人の英語に対する一生の態度が決まるといってよい。」

 

もうひとつ小川先生が大事なことをいっています。「英語の専門家になった人に聞くと、中学時代にいい教師がいてその発音がとてもよく、若い者の「外(とつ)国」への夢を満たしてくれたという。・・・文法の説明がうまかったから英語が好きになったということもあまり聞かない。・・・」

 

勉強はからっきしの私が英語の専門家の端くれになれたのも、たまたま中学一年と高校一年のときの先生がこのタイプの先生だったことと関係があったことに最近気がつきました。

 

当時も文法を中心に難しいことを教える先生がなんとなく偉いような雰囲気がありました。一方で私の先生はひたすらきれいに読むことにこだわっていて、そのために少しバカにされていた感じでした。でも、私はこの先生が好きで一生懸命真似しました。

 

商社に入って当時はまだあったコレポン(商用英文)部に配属されて、丸の内の東京海上ビルの?階から皇居の和田倉門を眺めながら、営業が書いた日本語のコレポンを毎日英語に直していました。その時に書く英文の土台にしたのは昔教科書で習って何度もその先生の真似をして繰り返し読んでいた文章でした。

 

文法は上司の添削や文法書をちょっと調べれば分かることで、ベースとなる英文のインプットがこれらの先生方のおかげで充分にあったことが役立ったんだと思います。文法中心に教える先生(ほとんどの先生がそうだった)に教わっていたならこうはいかなかったと思います。

 

文法を本格的に勉強したのは商社を辞めて地元で予備校の講師になってからでした。そのころはもう英検一級には合格していましたが、恥ずかしいことに仮定法とか聞いたこともありませんでした。

 

「英語力はインプット(読む・聞く)の量でほとんど決まって、文法は話したり書いたりするときにちょっと必要なだけ」と思ってるくらいでちょうどいいのではないでしょうか。大量のインプットがないときに文法を習っても、積み木崩しのように音を立ててくずれていきます。

 

以下はその先生のブログの引用です。

 

 

次回は、なぜこうも喧しく「大学入試にスピーキングを、、」と騒いでいるのか、そしてお子様をお持ちの皆様の正しい考え方と対処法について私の考えを書きたいと思います。

 

 

ぜひ、次回もお読みください。